このノートは、僕がこの35年間で学んだり発見したりした様々な事を、自分を高めるために書き出してまとめたものです。
 ここ最近つくづく考えるのは、デビューから一貫して他の仕事を兼ねることもなく35年も演劇一筋によく歩めたなあということです。
 振り返ると、正直言って、僕は、19歳まで芸能や演劇とは無縁であり、もともと愛想のない非社交的な性格だっため、プロとして舞台の仕事をするのは明らかに向いていなかったのです。
 19歳の自分は知識も乏しく演劇人もしてゼロの状態でした。
 才能があるとも思えずそのままプロフェッショナルの俳優として長くやっていけるとは思っていませんでした。
 ところが演劇の世界では、俳優以外の制作や美術製作、舞台照明などの仕事等幅広くやらせていただくようになり、好奇心もふくらみ、たくさん学ばせて頂きました。
本当に何にも知らないところから始まりました。
 聾者のためのプロ俳優養成の場も全くありませんでしたら、自分でなんとかするしかありませんでした。
 最初は、演劇を仕事にするのは向いていないと思っていましたが、演劇の仕事をはじめてから35年に経って、最近やっと「そうか、人生ってこんな風に過ぎていくんだ」と思うようになりました。
 19歳の僕にとっては、デフ・パペットシアター・ひとみでの旅公演は、コツコツと朝から晩まで地道な生活で、時間的にも経済的にも「青春の日々を楽しむ」余裕なんて殆どありませんでした。
お芝居のことを全く何も知らないで「オルフェ」「赤い椿の物語」のデフ・パペットシアター・ひとみの初公演でいきなり舞台に立ち、2年間全国を旅公演しました。
 道中ではいろいろ考えました。
 舞台をどうやって仕事にすればいいのか、そもそも演じる事だけで食べていけるのか。
 それでも、劇団の先輩に支えられながら日々成長させて頂きました。
 共演してくださった元劇団四季の上條さんと竹中さんの演技を、見よう見まねでひとつひとつ身体で覚えていき、少しずつですが成長できました。
そんなある日、「オルフェ」で主役の方が事情で突然降りることになって、大先輩の女優今泉陽子さんから「あなたにオルフェ役を演じてもらいます」と言われ、主役を頂くことになりました。
 僕は運が良かったというか、その役をやらせて頂けるとは思いもしなかったし、大きな役を頂いて恐縮しました。
 そして、「今日からはもうプロ俳優だから、聞こえないとか特別に扱うようなことは一切しない、俳優としてはみんな対等」と言われました。
 その言葉は僕にまっすぐ投げ込められ、自分の中で少しずつ俳優としての自分を作っていくようになりました。
 その時以来、「聞こえないと聞こえることにおける平等」についてではなく、「聞こえる聞こえない関係なく対等に演じていく」ことへのこだわりが強くなってきました。
 その一年後、尊敬していた女優今泉陽子さんが亡くなられてしまったのです。
 悲しみを乗り越えるため、今泉さんは自分に何かを託そうとしたのだと思うことにし、いっそう頑張っていこうと思いました。
 まだ20代の自分でしたが、自分なりに出来ることは何だろうと考えるようになりました。
 そして、まずは、「デフ・パペットシアター・ひとみ代表」という責任、役割について真剣に考えるようになりました。
 みんなも代表としての自分をよく見ているので、常にお手本でないといけません。
 制作プロデューサー・舞台監督の森元勝人さんから、オルグ(会社の場合は営業部と同様)や宣伝、経営力、劇作術などを学びながら、協同し合って働いていくという道があることを身を持って示してきたつもりです。
 自分のことといえ、福祉の市場からの出発ではなく、一般の芸術文化から出発したことで、幅広い経験ができました。
 その後、松山善三さん演出の「赤い椿物語」、ふじたあさやさん演出の「京太郎の唄」、遠藤啄郎さん演出の「遠野物語」、ふじたあさやさん演出の「曽根崎心中」…とそれぞれ二年間ずつ旅公演し、二年に一度、新作を作る年月でした。
 新作とで会うたび、「今作品も幅広い客層の皆さんを楽しませたい」という感覚が強くなっていき、演劇人の一人として僕らしいものを生み出していこうと気がついたのです。
 それにしても、演劇を始めた頃は、著名な演出家の方々から、演劇と社会の関わりなどの話しを聞くのが大好きでした。
 今はあまりそういう機会がありません。
 とにかく強烈な人ばかりであり、皆さんそれぞれ他に同じ人を知りません。
演出の凄さ、たちまち面白い作品ができていく、そのことに驚きながら、たくさんの衝撃を受けました。
ふじたあさや演出家に出会って「曽根崎心中」の徳兵衛役をやらせていただいた時には、近松門左衛門のゆかりの地に行きました。
 近松の足跡を初めてたどり、そこに書かれてある歴史や、知らなかった事実にも驚きましたし、なぜ今まで知らないでいたのだろうと思うことがたくさんありました。
 遠藤啄郎演出家との出会いも同様でした。
 1985年の『遠野物語』の主役は、僕にとって俳優人生の大きな転機となりました。
 遠藤さんの台本には、台詞がまったくありません。
 手書きで書かれた原稿用紙には、ただ作品イメージだけが書かれていました。
 遠藤さんは、「他と同じようなステージは作らない、世界で一番面白い作品になるはずだという気持ちをもち、作品の世界を読み取って、それにはまれるかどうかに作品の良し悪しがかかっている」というようなことを言われたと思います。
 稽古は、意外なことだらけでした。
 僕は、汗だくになって真面目にメモしました。
 『遠野物語』を読んだこともなかったのであわてて買って読みました。
 民俗学の柳田国男のことも何も知らなかったのです。
 何度も読み返しましたが、あまりにも自分にとって大きなテーマ過ぎて、正直理解しづらいなと思いました。
 台詞の全くない上演時間50分の芝居が成り立つかどうか。
 遠藤さんは、「芝居にメッセージを持たせる必要はない」と言い切り、色々な要求をされました。
 メッセージ性はなくてよいと言われて不思議な感覚になりましたが、演出されるまま稽古を重ねていきました。
 積み重ねるうち、どんどん面白い方向に作られていくようになり、初演から8年間も、海外も含めた旅公演をすることかができました。
 本当にたくさん学ばせてもらいました。
 原点といえば、一番大事なことは、「世界とは温故知新」であり、「自分を知る」ことです。
 5、10年、15年と経つにつれ、表現・演劇に対する欲求がだんだん強くなってきました。
 いまは、仕事において、どれだけやったかという「知名」の『知』よりも、何をどうやってしたかという「職人技」の『技』、『ドラマツルギー』の『技』に対する強いこだわりを求めていきたいと思うようになりました。
 いい仕事をしたい、社会に貢献したいという、こだわり、ある意味でのわがままさを一人ひとりがもっと持つべきだと思います。
 自分としては何を学ぶべきなのか。それは、『職人技を究める』『庄崎流儀のドラマツルギー』であると思っています。
故今泉陽子さん故今泉陽子さん 『なぜ、なに、どういうことか』と『時間に感謝する』ことを大切だと考えます。
 豊かに働き、丁寧に生きるための極意。演出家として俳優としての時間を確保する。
 特にプロデュース公演やコラボレーション公演が多いので役者もスタッフも一期一会です。
 その公演の時だけしか会わないのです。
プロフェッショナル同志、本番までのあらゆる約束を固く守る人が集まればそのチームワークは強いものになります。
 そこを第一条件にし、ゼロからみんなで何かを生み出す。
 先人の表現に学びつつも、自分達だけのオリジナルを「新しいスタイル」として表出すべく、その覚悟をもって演劇の仕事をしています。
くりかえしますが、俳優として、舞台アーティストとして、また人間として、僕が大きな影響を受けたのは、映画監督松山善三さん、演出家ふじたあさやさん、演出家遠藤啄郎さん、演出家宇野小四郎さん、女優今泉陽子さん、プロデューサー森元勝人さんです。
 6人の方々に出会って、演劇をやる意味や僕らしさを生み出していくことに気づけたように思います。

2016年2月24日