役者の役割は、台本を読んで、演じれば、その仕事は成立します。
しかし、役者の心構えとしては、役作りが重要です。
台詞の背景にある事実をよく捉え、同時に、表現力を磨いていく必要があります。
演劇の世界では、事実をとらえていくことを「真実」、表現力磨いていくことを「虚構」と言っています。
役者は、この「真実」と「虚構」を探し続ければならないのです。さらには、この真実と虚構をうまく組み合わせながら「間」を作り、その役になりきる、「中身を知る」ことが大切なのです。
さて、「間」とは何でしょうか。
役者と観客の「間」、役者同士の「間」、一人の役者の中にも心の「間」、表情の「間」など、演劇には常に「間」はあります。
この「間」は、真実と虚構の世界の狭間にもあるのです。
どの芸術も、そこには「間」があるとも言われています。
役者は「間」を追求していくことで、観客に感動を与えることができると思うのです。
さて、役者としての自分の「間」について振り返ると、人形劇役者であった時代の経験が土台になっていると思います。
時折、近松門左衛門の『虚実皮膜論(きょじつひまくろん)』を思い浮かべます。まさしくその心境です。
『虚実皮膜論(きょじつひまくろん)』とは何か。
芸といふものは実と虚との皮膜の間にあるもの也(なり)。
〈略〉虚にして虚にあらず、実にして実にあらず、この間に慰か有るもの也。
これは、近松門左衛門の有名な言葉です。「現実と虚構の間にいるもの」とはなんでしょうか。
近松の言っているのは、浄瑠璃における「間」ではないかと思いますが、文楽人形と義太夫(語り)、三味線の3つを使って表現されるものを「間」と呼んだと考えます。
この「間」から、感動が生み出されるのです。
28年前、近松門左衛門が書いた『曽根崎心中』を前進座で上演した時、徳兵衛の役をやらせて頂きました。
念願の『曽根崎心中』に取り組むことになりました。
早速、近松の足跡や大阪の町で実際に起きた心中事件、事件の1ヶ月後の劇化までの流れなど「真実」を学び、稽古に励みました。
しかし、人形を操作しているつもりでも、脚本・演出のふじたあさやさんに「違う。もっと真実と虚構の間を表現して」と言われました。
しかし、意味が分からず人形をうまく遣えないでいました。
ふじたさんに、「近松は、何を言いたかったのでしょうか?」と尋ねました。
ふじたさんからはこのような内容の答えをもらったように思います。
「本当に言いたいことは、近松自身の頭の中にあるだろう。近松は人形にこだわった。たとえば、悲しいという表現一つ取っても、人間劇の場合は、役者本人が伝えきれないもどかしさや真実自体分かり得ないこともあるまま演じる限界のようなものがあるが、人形劇は、役者と人形が一体になることで、神秘的な不思議な力が出る可能性がある。だから近松は人形浄瑠璃の「間」を通して表現することにこだわったと思う。」
人形芝居にこだわって台本が書かれたことを知った僕は、さらに浄瑠璃について様々な資料や専門書を調べているうちに、「曾根崎心中」は今から313年前、元禄十六年(1703年)5月に大阪の竹本座という人形劇場で初演され、近松にとって大当たりをとった世話物の初めての作品ということも分かりました。
近松は、自分の書いた内容は、人間の歌舞伎としてではなく人形の浄瑠璃として表現される方が、真実と虚構の間、つまり皮膜の間をより豊かに表現でき、観客がよりリアルに内容を理解し、さらに感動を与えることができると考えたのです。
皮膜の間が大当たりしたわけです。
この近松の人形を遣ったことによる大当たりの話を僕は純粋に「さすが、面白い!」と思いました。
それで演劇よりも人形芝居を選ぼうと考え、人形芝居の魅力を探り始めました。
このことを知った僕は、初めて人形劇に目覚め、ただ人形を上手に動かすだけでなく、感情や相手、視線、足取り、舞台での立ち位置、美しさ、醜さなど様々な「間」を意識し遣うのだという意識をもつことができたのです。
そして、長年人形劇役者として、いろいろな人形を遣ってきた中で、人形を表現媒体として使うことは、その遣い方を自分が磨くことはもちろん大切ですが、人形自体に魅力があり、人形遣いと人形そのものの組み合わせの間の表現が、観客の想像を膨らませるのに有効な手段であることを実感しました。
一方、人間だけで演じる舞台は、人形を遣うときに比べ、役者である生身の人間を消し去ることがなかなかできず、真実と虚構の間を追求するのにとても苦心した印象がありました。
デフパペットを退団し独立して台詞の演劇をしたり舞踏をしたりしましたが、劇人形の助けのない自分はまだまだ力不足です。
これまでいろいろ自分なりに挑戦、探求してきましたが、その一つがこれです。
2007年4~5月シアターX・赤レンガ倉庫公演『UKIYOE~浮世絵~』の演出をするにあたって、その意図するところのかなり大きな部分は、生身の人間が作り出せない部分を人形で創りだそうとしたことです。
これまでと違った面が新たに見えた取り組みでした。
今、大人気のアニメーションには全く門外漢の私ですが、アニメーション映像人形劇を作り出せたらと、妄想しているところです。
僕は浄瑠璃の好きな演劇人になっていこうという覚悟がようやく出来て以来、30年以上経った今でも、人形浄瑠璃に負けないようにするためにはどうしたらよいのか、未だに道なき道を手探りで進んでいるという感じなのです。
2016年3月27日